2018/07/30

W.A.モーツァルト/ピアノ、クラリネットとヴィオラのための三重奏曲 変ホ長調 K.498

この作品は1786年8月5日、ウィーンで作曲されました。モーツァルトは親しい友人や演奏家のために多くの作品を残しており、この「ケーゲルシュタット・トリオ」もそうした作品の一つだと考えられています。初演では、モーツァルトの友人でピアノの生徒だったジャカン家の令嬢がピアノを、モーツァルト自身がヴィオラを、クラリネットは当代随一の名手だったアントン・シュタードラーが演奏したという逸話があります。


なお、「ケーゲルシュタット・トリオ」とは広く定着した愛称ですが、モーツァルト自身が与えたものではないというのが通説です。ケーゲルシュタットとはドイツ語で、「ケーゲルン(ボウリングのようなゲーム)」を行う場所、といった意味の語で、同時期に書かれた管楽器のための作品(12の二重奏)の自筆譜に「ケーゲルンをしながら」と残っていたことから混同されたのでしょうか。しかしながら、この作品の持つ伸びやかさや遊び心を感じさせるネーミングで、言いえて妙な感じは多分にあります。編成としてかなり特殊な作品にもかかわらず演奏頻度が高いのは、曲そのものの魅力はもちろんのこと、愛称を与えられたことも、その理由の一助となっているのかもしれません。


曲は、澄みわたるような長調で紡がれるフレーズをベースに、内省的な短調のフレーズを織り交ぜた3つの楽章からなります。各パートとも随所に見せ場があり、趣向を凝らして書かれた作品だといえるでしょう。


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室内楽演奏会vol.10

2018/07/28

L.v.ベートーヴェン/木管八重奏曲 変ホ長調 Op.103

管楽器のための8重奏曲 変ホ長調 Op.103は、1792年に作曲され1793年に改定された楽曲です。
ベートーヴェンは1770年生まれなので22・3歳ごろに作ったことになり、作品番号でいえば1番あたりでもよいはずなのに何故103番なのか-それは、この曲がベートーヴェンの死後、1830年に出版されたためこのような作品番号となった-ということです。

ちなみにベートーヴェンは改訂されたのに外に出さなかったこの曲を弦楽5重奏に編曲し、1796年に「Op.4」として出版しました。弦楽5重奏という新ジャンルを開拓する実験曲のベースとしてOp.103を使用していたのです。
さらに1806年、彼のよき理解者でありよき友であったフランツ・クラインハインツが弦楽5重奏からピアノ3重奏曲に編曲し、本人がそれを承認したことでOp.63として出版されています。
まさにこの曲は一粒で三度美味しいといわんばかりですが、曲のベースは同じでも全てが別の楽曲として成立するのはさすが大作曲家!としかいいようがありません。

Op.103の編成はオーボエ・クラリネット・ファゴット・ホルンが各2本で、この編成はベートーヴェン憧れのモーツァルトの管楽セレナーデと同編成なので、何か影響を受けたに違いないでしょう。
曲想は短調楽章のない、軽やかで明るく爽やかな4つの楽章で構成されています。オーボエとクラリネットが曲を導きファゴットとホルンがそれを支える、木管楽器の温かくて柔らかい響きとバランスのとれた音楽をお届けいたします。

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2018/07/27

G.ゴルターマン/『2つのサロン風の小品』よりレリジオーソ&J.クレンゲル/4つのチェロのための即興曲 Op.30

オーケストラや室内楽で低音セクションを担当するチェロは、古楽では肩にかけてバイオリンのように演奏されたり、床にエンドピンを指さず足に挟むスタイルから発展してきた楽器だ。
イタリア語のVioloncelloとはViolon=Viola+one(大きなヴィオラ) + cello(小さい)、つまり「小さな大きなヴィオラ」の意味になる。もともと弦楽器一般をヴィオラと呼んでおり現在のそれとは異なるのだが、当時の弦楽器の大きいものがViolone(ヴィオローネ、コントラバスの祖先)、さらにそれの小さな楽器がVioloncello、ということだろうか。
ただしヴァイオリン、ヴィオラ、チェロは「ヴァイオリン属」と呼ばれる楽器で構造的にはヴィオローネとは別のものである。

楽器としてのチェロは低音楽器でありながら倍音を利用することで高音までを出すことが可能で、音域の広さを活かして同一楽器でのアンサンブルにも取り組まれている。
近年では「1000人のチェロ・コンサート」がもっとも有名なイベントだろう。

『2つのサロン風の小品』より 1.レリジオーソ (Georg Eduard Goltermann, 1824 – 1898)
この曲は1000人のチェロコンサートで何度も取り上げられており、チェリストの間ではお馴染みの一曲です。逆に、チェリスト以外はこの曲は全く知られていません。この機会にぜひお楽しみ下さい。

即興曲 Op.30 (Julius Klengel, 1859 - 1933)
ドイツの有名(らしい)曲のメドレーで構成されていて、ゆったりとした賛美歌から始まり、最後は結婚行進曲で華やかに終わるという気ままな接続曲スタイルの作品。


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2018/07/25

W.A.モーツァルト/ホルン五重奏曲 変ホ長調 K.407

モーツァルトはその短い生涯の中で、多くのホルンの為の楽曲を書き残しています。
4曲(断片も含めるともっと沢山!)のホルン協奏曲が特に有名で、そのほとんどは、モーツァルトの友人であったヨーゼフ・ロイトゲープ(1732-1811)の為に書かれたと言われています。
彼とモーツァルトの関係は「親友」か「悪友」か、いずれにしろ相当気の置けない間柄であったようで、ホルン協奏曲の自筆譜にはロイトゲープに当てた(下品な)からかいの言葉が書かれていたり、楽譜自体も色とりどりのインクで書かれていたり、と言ったエピソードも良く知られています。

今回演奏する「ホルン五重奏曲」も、ロイトゲープの為に残した作品の中の一つです。まるで協奏曲のように技巧的に書かれたホルンのパートが、弦楽4部(通常のカルテットとは異なり、ヴィオラ2本の編成となっており、暖かな響きがします)と対話する形式で書かれています。

個人的な話を一つ。
大学時代の恩師は、お前たちのような下手くそがこの曲に手を出すな!と口を酸っぱくして言っていました。あのゲルト・ザイフェルト(カラヤン時代のベルリン・フィルの伝説的な首席ホルン奏者)も怖がっていた曲なのだから、と。いざ練習を始めて、その忠告の意味を改めて実感している次第です。
楽譜自体はそんなに難しくないように見えるのに、それを「モーツァルトらしい」音楽に聞かせるのは素人ホルン吹きにはいかに難しいことか。。。
まだまだ技術も人生経験も足りないようです。

充実した響きを聞かせる、弦楽4部の演奏に聞き惚れつつ、ホルンの悪戦苦闘を温かい目で見守っていただければ幸いです。


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2018/07/21

R.シューマン/ピアノ四重奏曲 変ホ長調 Op.47

もともとはピアニストを目指していたシューマンの作品では、やはりピアノが重要な位置を占めている、はずなのだが「ピアノソナタ」として作曲されたのは3曲である。有名な「トロイメライ」を含む「子供の情景」や「子供のためのアルバム」など小品を多く残しているが、モーツァルト(番号なし含む20曲)、ベートーヴェン(32曲)、シューベルト(21曲)と比べるとだいぶ少ない(ブラームスは3曲だ)。

またピアノを含む室内楽曲では2つの三重奏、四重奏と五重奏を1つずつ作曲している。
四重奏曲は未出版に終わったハ短調の曲があるが、一般に「シューマンのピアノ四重奏曲」とはこの変ホ長調を指す。

作曲されたのは「室内楽の年」と呼ばれる1842年、シューマンは32歳。
1840年にクララと結婚し、交響曲第1番を完成させ(1841年)、のちにピアノ協奏曲に転用される幻想曲や交響曲第4番のスケッチもはじめ、ピアニストから作曲家への転身を実現しつつある時期だ(1841年は「交響曲の年」とも呼ばれる)。
1842年にはピアノ五重奏曲、弦楽四重奏曲などを作曲した。

当時活動していたライプツィヒはメンデルスゾーンを中心に音楽院の創設、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の活動(1838年にはあの「ザ・グレート」を初演した)と充実した環境であったが、シューマンにとっては送り出した作品に伴う経済的な成功にはつながらず、神経衰弱の症状がではじめる。
1843年にはベルリオーズとの出会いに刺激を受け、オラトリオ「楽園とペリ」の成功、クララの父ヴィークとの和解、翌44年にはロシア旅行でクララがロシア皇帝の前で演奏するなど音楽家としての成功を収めたかに見えたが、神経疲労の症状は回復せず、やがて音楽院の職を辞し、ドレスデンへと移住を決意する。

全曲を通して幸せに満ちたピアノ四重奏曲であるが、そのわずか2年後にはそのような未来が待ち受けるとは誰も想像しなかったことだろう。

第1楽章:
ベートーヴェンの後期作品のような深い内省による主題提起に続き、快活なソナタ形式の音楽が続く。
第2楽章:
緊張感あるスタッカートの音楽、しかし中間部では優しい(しかしシューマンらしいシンコペーションに苦しむ)音楽を挟む。
第3楽章:
この曲の一番の聴きどころ、幸せに満ちたこの曲は過去の思い出や現在の幸せを各楽器が交代で奏でていく。思い浮かぶのは家族愛、クララへの愛情に満ちた家庭が思い浮かぶ。
曲の後半にはチェロが最低音のC線を1音下げる奏法も特徴的。
第4楽章:
一転して明るいフガートから始まる楽章。演奏者にとっては緊張の楽章だが、最後のコーダの華麗さはシューマンらしさに溢れた終結だ。

余談であるが、第3楽章では映画「君に読む物語」を思い出す。
この映画も家族をテーマにしたもので、結婚に反対され紆余曲折がありながらも長く夫婦として暮らした物語(それだけだとなんとも平凡な話だが)はおすすめの一作だ。

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L.v.B.室内管弦楽団第42回演奏会

L.v.B.室内管弦楽団第42回演奏会

2018年11月23日(金・祝) 府中の森芸術劇場ウィーンホール
13:30 開場 14:00 開演

指揮:
 広井 隆

独奏:
 岡田 澪

曲目:
 J.ハイドン/交響曲第99番変ホ長調 Hob.I:99
 W.A.モーツァルト/フルート協奏曲第1番ト長調 K.313(285c)
 F.メンデルスゾーン/序曲「フィンガルの洞窟」Op.26
 L.v.ベートーヴェン/交響曲第4番変ロ長調 Op.60

入場料:
 全席自由1,000円(前売800円)
 前売りチケットはイープラスにて取り扱い
  →イープラスへ(外部サイト)

お問い合わせ:
 メールでのお問い合わせ
 050-5892-6765(事務局)

会場アクセス:
 東府中駅(新宿駅から約25分、京王八王子駅から約20分)北口下車 徒歩7分

※弦楽器のメンバーを募集しています→詳しくはこちら

2018/07/10

J.ハイドン/交響曲第45番嬰ヘ短調 Hob.I:45「告別」

「告別」、ドイツ語ではAbschiedssinfonie、直訳すれば「別れの交響曲」。
タイトルだけ聞くといささか縁起の悪い名前かもしれない。

しかしながら知る人ぞ知るこの曲は100を超えるハイドンの、そして後世の楽曲からしてもユニークな曲だ。
ハイドンのパトロンであるエステルハージ候の避暑地に楽団員とともに訪れていた。いつになく滞在が長引くと家族と離れ離れになる楽団員からの不満も高まり、そこでハイドンが趣向を凝らした、というエピソードがこの曲の背景だ(離宮が狭く楽団員は単身赴任だったようだ)。

第1楽章、嬰ヘ短調は憂い、悩み、孤独を感じさせる調性は「シュトゥルム・ウント・ドラング」、疾風怒濤の時期でもあり緊迫した音楽から始まる。特徴的なのは展開部で、全休止の後曲調が急に穏やかになる。ソナタ形式の第二主題のような位置付けだが、冒頭の緊迫した音楽からすると実に違和感がある。
この違和感こそがハイドンの”布石”ではないかと思ってしまうところだ。

第2楽章は陽気なイ長調で作曲されているが、この曲もまたどこか違和感を感じさせる。
一見美しい音楽と、反復される動機はいつしか瞑想感、要するに眠気を感じさせながらところどころに不協和音が盛り込まれ音楽に浸ることを故意に妨げているのではないだろうか。

第3楽章は不完全燃焼した第2楽章から一転楽しげなメヌエット楽章、と思わせておきながら嬰ヘ長調、つまりシャープが6個もつけられており、大変演奏しにくい楽章だ。そしてまたもやすっきりせず不満が募っていく。

第4楽章。
ようやくここまでのハイドンの仕掛けが活きてくる。
再び決然とした音楽からはじまり、疾風怒濤の音楽が流れていく。これぞハイドンだ、とエステルハージ候も思ったことだろう(推測)。やがてやや短いものの力強い終結を迎え・・・ここから「告別」がはじまる。
曲はadagioの癒しの音楽へと変わり、そして楽団員がひとり、またひとりとステージから去っていくのである。これにはエステルハージ候も驚いたことだろう。
第3楽章までの中途半端な違和感の音楽はこの演出のためだったのかもしれない。
最後には第3楽章と同じ嬰ヘ長調へと転調し(弾きにくい!)、2人のバイオリン奏者が最後に残され、曲は終結を迎える。

観客も拍手をしたものか迷うような最後であるが、エステルハージ候は正しくこの曲の意図を汲み、翌日には帰路に着いたとされる。

余談であるが、1つ前の第44番には「悲しみ」のタイトルがつけられている。
こちらは正真正銘悲しみに満ち、ハイドンは自身の葬儀の際に演奏されることを望んだ曲である。