ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 作品73 1809年完成,1811年初演
当団では、前回の演奏会で取り上げた交響曲第5番「運命」に続き、ベートーヴェンの5番の演奏となります。
ベートーヴェンの「傑作の森」(1804年からの10年間)と言われている中期の作品の中でも傑作中の傑作であることは異論のない作品です。
彼の最後のピアノ協奏曲であり、彼のあらゆる楽器での協奏曲でも最後の作品です。
ベートーヴェン自身もピアノの名手であったがゆえに「協奏曲」という分野の作品はこれで完成した。ということなのかもしれません。
みなさま「皇帝」と聞いて何を思い浮かべるでしょうか。
この曲の「皇帝」という副題はベートーヴェン自身が付けたものでもなく、当時ウィーンを占領したナポレオンに献呈したものでもありません。(曲はベートーヴェンのパトロンだったルドルフ大公に献呈されています。)
時まさにナポレオン戦争の真っ最中で、オーストリア戦役にて、ウィーンがフランス軍に占領され巨額な賠償金を課せられた年の作曲です。当時のウィーンは戦火に巻き込まれ荒廃していた中で作曲されました。
「皇帝」といえばナポレオンを連想させますが、第3交響曲「英雄」を、ナポレオンに捧げたとはいえ自分の故郷を蹂躙した皇帝のために作曲したとはちょっと思えません。
この副題には諸説ありますがその威風堂々とした曲想から後世の人が名づけたようです。
第1楽章 Allegro.
その名にふさわしい変ホ長調のオーケストラによる堂々とした全奏から始まり、いきなりピアノによる華々しいカデンツァが演奏されます。
それまでの協奏曲の常識を覆す、この導入部は発表された当時は相当センセーショナルであったのはでないかと思います。
この序奏で聴衆の耳を演奏に釘づけにする手法こそ、後のロマン派の作曲家の協奏曲で用いられる手法の元祖なのです。
序奏のあとは古典派の常識にそった展開を見せていきますが1楽章の演奏時間の長さも当時では常識はずれの長さだったのです。
従来の協奏曲では、1楽章の終結部ではソリストの名人芸を披露するためにカデンツァが挿入されていておりましたが、ここでもベートーヴェンは常識を打ち破り「カデンツァ不要」としています。
第2楽章 Adagio un poco mosso.
いかにもベートーヴェンらしい、ロマンスあふれる旋律に満ち溢れた楽章です。
この美しさは情熱や告別といったベートーヴェンのピアノソナタに通じるものを感じます。
ベートーヴェンは、その肖像画の印象が強烈なためかどちらかというと、運命や交響曲第7番といった、硬派なイメージがありますが筆者はこういった美しいメロディーもベートーヴェンならではと感じています。
音楽的には、拡大された2部形式のようでもあり3部形式のようでもあります。
曲は止まることなくそのまま3楽章へ突入します。
筆者は、このオーケストラではトランペットを吹いております。
悲しいかなこの美しい第二楽章ではトランペットはお休みなのです。
しかし私はこの楽章が美しいメロディーと和声に満ち溢れており大好きなのです。
ベートーヴェンの時代のトランペットはバルブやキーというものがなく、打楽器(ティンパニ)を補完する役目をする楽器でした。
当時のトランペットではこの美しいメロディーは演奏することは不可能だったので仕方がないことですが。。
第3楽章 Rondo Allegro - Piu allgero .
ロンド( Rondo )というのは輪舞曲と日本語で訳されます。
通常は、複数の舞曲をA-B-A-Bというような形で進んでいきます。
この曲では、左手は3拍子2つ(6/8拍子)でリズムを刻んでいますが、右手のメロディーは2拍子を3つで進んでいきます。
うまくかみ合わないと踊ることが出来ない音楽になってしまいます。
オーケストラの伴奏でもピアノと同じようにリズムとメロディーが別々の拍子で音楽を進めます。
曲はピアノとティンパニだけで静かに閉じそうになりますが、最後は息を吹き返すかのようなピアノの躍動感あふれたパッセージとオーケストラの全奏で華やかに幕を閉じます。(S.S)
2016/02/11
2016/02/07
J.ブラームス/交響曲第3番 ヘ長調 Op.90
ブラームスの3番目の交響曲であるヘ長調作品90は、1883年、ブラームス50歳の年に作曲されました。この曲を作曲している間は保養のためヴィースバーデンで過ごしていましたが、他の創作には一切手を付けず、この交響曲にのみ専念していました。
ヴィースバーデンの住居はブラームスにとってことのほか気持ちのよい家であり、彼は「この素晴らしさはこんな鉄のペンでは書き表すことができない」と友人に述べています。このような気持ちも手伝い、作曲はとても順調に進んだようです。
初演は1883年12月2日、ハンス・リヒター指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によってウィーンで行われました。
第1楽章の冒頭部、F-As-Fの3つの音から始まるこの動機はこの交響曲を組み立てる上で基本となる音列であり、以後何度となく使用され、またこれが形を変えて新しい主題を生み発展していきます。
ヘ長調を中心としながらも、イ長調に転調した際のクラリネットの暖かく牧歌的な旋律、展開部のビオラやチェロの情熱的で心に訴えかけてくるかのような嬰へ短調のメロディなどの多様な表情を混え、ブラームス独自の熱情や円熟した手法を感じられる楽章となっております。
第2楽章は、ヘ長調の上属調のハ長調で書かれており、平和な牧歌風ののどかな雰囲気が印象的な楽章となっています。
今にも小鳥のさえずりや小川のせせらぎが聞こえてきそうなクラリネットやオーボエの旋律、遠い山の教会から聞こえる賛美歌のようなトロンボーンのハーモニーが静かに響き、思わず天上へ誘われるかのような感覚を抱くのではないでしょうか。
交響曲での第3楽章はメヌエットやスケルツォが一般的ですが、ブラームスは間奏曲的な位置付けでこの楽章を書いています。
調性はハ短調で、冒頭部のチェロのむせび泣くような旋律が涙を誘います。
中間部は木管楽器を中心に、移ろう気分を表すかのような旋律が変イ長調で奏でられますが、また悲しみが溢れるかのようにハ短調に戻り、冒頭部の旋律が今度はホルンが奏で、オーボエに引き継がれます。
第4楽章はヘ長調ではなくへ短調を中心としており、弦楽器とファゴットによるうねるような旋律に始まり、2・3楽章では一部を除き使われていなかった金打楽器も総動員し、曲中でもっとも激しい曲調となります。時折牧歌的な部分も見せつつ、中間部では、神の声を表すとされるトロンボーンに導かれ、オーケストラの全奏により、最後の審判のような場面が訪れます。なおも激しい曲調は続きながらも、ある時一変して静かになり、ヴァイオリンが第1楽章冒頭の動機を奏で、救いをもたらすかのようなヘ長調の和音で終止します。
ヴィースバーデンの住居はブラームスにとってことのほか気持ちのよい家であり、彼は「この素晴らしさはこんな鉄のペンでは書き表すことができない」と友人に述べています。このような気持ちも手伝い、作曲はとても順調に進んだようです。
初演は1883年12月2日、ハンス・リヒター指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によってウィーンで行われました。
第1楽章の冒頭部、F-As-Fの3つの音から始まるこの動機はこの交響曲を組み立てる上で基本となる音列であり、以後何度となく使用され、またこれが形を変えて新しい主題を生み発展していきます。
ヘ長調を中心としながらも、イ長調に転調した際のクラリネットの暖かく牧歌的な旋律、展開部のビオラやチェロの情熱的で心に訴えかけてくるかのような嬰へ短調のメロディなどの多様な表情を混え、ブラームス独自の熱情や円熟した手法を感じられる楽章となっております。
第2楽章は、ヘ長調の上属調のハ長調で書かれており、平和な牧歌風ののどかな雰囲気が印象的な楽章となっています。
今にも小鳥のさえずりや小川のせせらぎが聞こえてきそうなクラリネットやオーボエの旋律、遠い山の教会から聞こえる賛美歌のようなトロンボーンのハーモニーが静かに響き、思わず天上へ誘われるかのような感覚を抱くのではないでしょうか。
交響曲での第3楽章はメヌエットやスケルツォが一般的ですが、ブラームスは間奏曲的な位置付けでこの楽章を書いています。
調性はハ短調で、冒頭部のチェロのむせび泣くような旋律が涙を誘います。
中間部は木管楽器を中心に、移ろう気分を表すかのような旋律が変イ長調で奏でられますが、また悲しみが溢れるかのようにハ短調に戻り、冒頭部の旋律が今度はホルンが奏で、オーボエに引き継がれます。
第4楽章はヘ長調ではなくへ短調を中心としており、弦楽器とファゴットによるうねるような旋律に始まり、2・3楽章では一部を除き使われていなかった金打楽器も総動員し、曲中でもっとも激しい曲調となります。時折牧歌的な部分も見せつつ、中間部では、神の声を表すとされるトロンボーンに導かれ、オーケストラの全奏により、最後の審判のような場面が訪れます。なおも激しい曲調は続きながらも、ある時一変して静かになり、ヴァイオリンが第1楽章冒頭の動機を奏で、救いをもたらすかのようなヘ長調の和音で終止します。
2016/02/03
2016/01/03
L.v.ベートーヴェン / 2つのオブリガート眼鏡付きの二重奏曲 変ホ長調 WoO 32
この奇妙な題名の二重奏曲は、ベートーヴェンの友人のビオラ奏者とチェロ奏者のために作曲され、友人達が二人とも眼鏡を着けていたことからこの奇妙なタイトルが着けられたようです。オブリガートとは音楽用語では「助奏」の意味でアドリブ(ad libitum)の逆の意味、楽譜上に記載された旋律や修飾を意味していますが、この曲ではイタリア語の「固定の」「必須の」の意で使われておりベートーヴェンの言葉で「演奏者に眼鏡が必須」"Duetto mit zwei obligaten Augengläsern" ( Duet requiring two pairs of spectacles ).と残されています。
作曲は1796年、作品番号にWoOが使われているように初期の作品です。
ピアノヴィルトーゾとして売り出していたベートーヴェンが耳の病に苦しんでいた時期ですが、弦楽四重奏曲と交響曲第1番を作曲するのはこの3年後 、このころはまだピアノやバイオリンのためのソナタなどの小品を作曲していました。
ビオラとチェロの二重奏なのでバイオリンのような派手さはないものの、軽妙でウィットに富んだ掛け合いが続く楽しい曲です。
どちらのパートも、特にチェロパートは高音域を用いるため、冗談のような曲名と楽しいとはいえ地味な曲で難易度も高いためあまり演奏されることはないようです。
曲はソナタ形式で充実した第1楽章とおまけのようなメヌエットの第2楽章、そして断片のみの第3楽章で構成されていますが、通常は第1楽章のみが演奏されています。
弦楽四重奏曲第4番(Op18-4)の1楽章とこの二重奏のテーマがよく似ています。
四重奏曲の発表は1799年ですが、どうやら同時期に作曲されていたようです。
2015/12/11
C.ライネッケ / オーボエ、ホルン、ピアノのためのトリオ イ短調 Op.188
ベートーヴェンの第九交響曲が初演された1824年に北ドイツに生まれたカール・ライネッケ。メンデルスゾーンとシューマンの弟子で、ライネッケは彼らの約10歳年下。師匠の世代にはショパン、リスト、ヴァーグナー、ヴェルディなど錚々たるロマン派の大家が顔を揃え、同世代にブルックナー、さらに約10歳下にブラームスという時代に生きた人物です。
作曲家としてその顔ぶれの中で、こと日本において、彼らほどの名声をライネッケが残しているとは言えません。フルートを学ぶ人なら、ライネッケのフルート協奏曲とフルートソナタ「ウンディーネ」は重要なレパートリーとしてご存知でしょう。他にはいくつかの室内楽曲が近年光を浴びつつあるくらい。しかし実は出版されているだけで約300曲、未出版を数えると1000曲以上となる、様々な分野にての膨大な曲を書いています。7歳には作曲を始め、13歳で作品1を出版し、亡くなる前年の84歳まで曲を生みだしています。オリジナル楽曲の他にも協奏曲のカデンツァ(モーツアルトのピアノ協奏曲の全て、ベートーヴェンの協奏曲が主とされ、特に現在よく実用されるモーツアルトの「フルートとハープのための協奏曲」のためのカデンツァを含めて、それらはライネッケの名前よりも有名になっていると言えます)、交響曲、ピアノ曲、協奏曲、歌曲、オペラなどジャンルは多岐に及び、さらに彼はピアニスト、教育者、指揮者としても長期間に渡り大変精力的に活動しました。
ピアニストとしては10代で既に著名の域となり、デンマークの宮廷ピアニストを経て各地での大規模な演奏旅行(国王の奨学金による)、リストやクララ・シューマンと共催の演奏会も多数という第一流の演奏家。シューマンから作品72「4つのフーガ」を献呈され、リストからは二人の娘のピアノの指導を委ねられました。特にモーツアルトの名手として知られ、優美でリリカルなタッチ、歌うようなレガートがリストを感嘆させていたとの事。
教育者としては、27歳からケルンの音楽院で作曲とピアノの教授を兼任してのち36歳でライプツィヒ音楽院の教授に就任します。院長を務めた最後の5年間を含めて実に40年以上をも、師であるメンデルスゾーンが開いたこの音楽院で教鞭をふるった事になります。教育の標準を確立するために、彼はバッハから同時代に至る数多のピアノ作品の校訂やトランスクリプション、さらに著名な管弦楽曲等のピアノ編曲を一手に引き受け、更に著作、子供や学生を対象とする教育作品も数多く。これらが模範的教材としてドイツで広く使用され、ドイツの音楽界の育成に多大な影響を与えた(現在も与え続けている)という教育界の重鎮です。彼の生徒にはグリーグ、ブルッフ、ヤナーチェク、ディーリアス、アルベニス、ワインガルトナーなどがおり、シベリウスも孫弟子です。穏健、誠実で慕われる人柄だったようで、また作品数や手がけた膨大な仕事と種類からも恐るべき勤勉さがうかがえます。
指揮者としての経歴も素晴らしいものです。30歳からオーケストラ指揮者を務めるようになりバルメン、ブレスラウを経て36歳でゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者に就任してからは35年に亘って当オーケストラを統率し、屈指の力量を定着させました(音楽院の教授業や作曲とも勿論、同時進行です)。ブラームスの「ドイツ・レクイエム」全曲初演をはじめ、後輩たちの作品をも多数取り上げています。
さて、ここまでそんなライネッケの業績をご紹介してきました。どれも超一流であったことは分かります、それらの全てを質の高い仕事内容で両立させた超人的な存在自体が驚きなのですが、調べるほどに そんな彼の名前が没後100年を経た現在、一般にあまり知られていないことに更なる驚きを覚えずにいられません。
理由として、活動領域の量と範囲と質が大きすぎるために、まず いったい彼が何者であったのか全体像をひとくちで語れず、ジャンルで突出しないため埋没しがちであること。また、作曲家として、前述の通り10年前後の世代にあれだけの個性的な面々が立ち並ぶ中で、系譜的にはシューマンとブラームスを繋ぐロマン派の中枢でありながら、立場上 古典にも新風にも精通しつつ、同時代のあらゆる作曲技法を自在に操れたゆえに包摂してしまい、オリジナリティの欠如という危険を孕みました。決して模倣ではないのに、個性の強烈なシューマンやメンデルスゾーン、ブラームス『の影響』といった比喩・印象が付き纏ってしまう評価を安易に下されがちです。また教育作品でも有名であるがために、その方面が得意ととられて、演奏家からの無関心やプログラム編成上の敬遠を招くケース。そして、推論として度々聞かれるのが、いわゆる超絶技巧など派手に目を引く箇所が少なく、作風は堅実で保守的(メンデルスゾーンから引き継いだ音楽院の方針でもあります)とされ、要するに「どちらかと言うとパッとしない」「傾向的に地味だろう」という印象。こうして没後は多くの作品が埋もれていったとみられます。
ですが、今回ここで取り上げる三重奏でお聴き頂けます通り、「パッとしない」そんな印象はおそらくお持ちいただけないはずです。堅実で保守的?確かに、書式は破綻ない堅実さですし、無理のある音域が基本的に排されて管楽器にはシューマン作品などよりはるかに息継ぎに配慮もあると同時に、確かに超絶技巧をひけらかす、とまでの派手派手しい場面は無さそうです。だからと言って易しいかと言うと飛んでもありません。それらの配慮がある上で、それぞれの楽器の特性やプレーヤーの個性、フレージングと表現についての考えと実現力を絶妙なラインで深く問う、譜面上はシンプルに見えて奏者を育てる目的が随所に仕込まれているようで唸らされる(さすが教育のプロとも思わされながら取り組んでいます)ものにもなっています。金管楽器代表、木管楽器代表、そして鍵盤の王様ピアノフォルテ。誰も脇役でもなく独立した音色と個性の三つ巴のような扱いです。この3つの楽器のチョイスと、それらに受け持たされたのが、1.300曲の中で何故こういう役目、立ち回りなのか?それもまたライネッケという人物と考え方について興味深く思わされます。
そして技術的な事とは別に、音楽的に「パッとしない」かどうか。これも飛んでもない話で、とても人間的、有機的で魅力的な音楽が詰まっていると思います。ドイツの音楽教育界の権化でガチガチかと思いきや、こんな柔軟な引き出しも持っているのかという、驚くほど楽しげであったり、優しさに満ちていたり、ドラマティックだったり。さながら映画音楽のような楽章もあります。季節でイメージするとしたら、1楽章は秋。2楽章は初夏。3楽章は春、それも桜の頃。4楽章は…春でも夏でもスキーでもいい、とにかく行楽日和、というところでしょうか。
この曲は作品番号188番、42歳の頃なのでライプツィヒで教授職と指揮者就任から7年目の時期のものです。今回のトリオも、40歳前後のメンバー3人での組み合わせとなり、奇しくも作曲家の人生のタイミングに近いようです。作品評として「苦み走った大人の音楽」との声もあるこの曲、(この印象は楽章が限定されると思いますが…)そろそろ人生も演奏も色々な経験を積みつつある3人、どのような人間模様をお見せできるでしょうか。
作曲家としてその顔ぶれの中で、こと日本において、彼らほどの名声をライネッケが残しているとは言えません。フルートを学ぶ人なら、ライネッケのフルート協奏曲とフルートソナタ「ウンディーネ」は重要なレパートリーとしてご存知でしょう。他にはいくつかの室内楽曲が近年光を浴びつつあるくらい。しかし実は出版されているだけで約300曲、未出版を数えると1000曲以上となる、様々な分野にての膨大な曲を書いています。7歳には作曲を始め、13歳で作品1を出版し、亡くなる前年の84歳まで曲を生みだしています。オリジナル楽曲の他にも協奏曲のカデンツァ(モーツアルトのピアノ協奏曲の全て、ベートーヴェンの協奏曲が主とされ、特に現在よく実用されるモーツアルトの「フルートとハープのための協奏曲」のためのカデンツァを含めて、それらはライネッケの名前よりも有名になっていると言えます)、交響曲、ピアノ曲、協奏曲、歌曲、オペラなどジャンルは多岐に及び、さらに彼はピアニスト、教育者、指揮者としても長期間に渡り大変精力的に活動しました。
ピアニストとしては10代で既に著名の域となり、デンマークの宮廷ピアニストを経て各地での大規模な演奏旅行(国王の奨学金による)、リストやクララ・シューマンと共催の演奏会も多数という第一流の演奏家。シューマンから作品72「4つのフーガ」を献呈され、リストからは二人の娘のピアノの指導を委ねられました。特にモーツアルトの名手として知られ、優美でリリカルなタッチ、歌うようなレガートがリストを感嘆させていたとの事。
教育者としては、27歳からケルンの音楽院で作曲とピアノの教授を兼任してのち36歳でライプツィヒ音楽院の教授に就任します。院長を務めた最後の5年間を含めて実に40年以上をも、師であるメンデルスゾーンが開いたこの音楽院で教鞭をふるった事になります。教育の標準を確立するために、彼はバッハから同時代に至る数多のピアノ作品の校訂やトランスクリプション、さらに著名な管弦楽曲等のピアノ編曲を一手に引き受け、更に著作、子供や学生を対象とする教育作品も数多く。これらが模範的教材としてドイツで広く使用され、ドイツの音楽界の育成に多大な影響を与えた(現在も与え続けている)という教育界の重鎮です。彼の生徒にはグリーグ、ブルッフ、ヤナーチェク、ディーリアス、アルベニス、ワインガルトナーなどがおり、シベリウスも孫弟子です。穏健、誠実で慕われる人柄だったようで、また作品数や手がけた膨大な仕事と種類からも恐るべき勤勉さがうかがえます。
指揮者としての経歴も素晴らしいものです。30歳からオーケストラ指揮者を務めるようになりバルメン、ブレスラウを経て36歳でゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者に就任してからは35年に亘って当オーケストラを統率し、屈指の力量を定着させました(音楽院の教授業や作曲とも勿論、同時進行です)。ブラームスの「ドイツ・レクイエム」全曲初演をはじめ、後輩たちの作品をも多数取り上げています。
さて、ここまでそんなライネッケの業績をご紹介してきました。どれも超一流であったことは分かります、それらの全てを質の高い仕事内容で両立させた超人的な存在自体が驚きなのですが、調べるほどに そんな彼の名前が没後100年を経た現在、一般にあまり知られていないことに更なる驚きを覚えずにいられません。
理由として、活動領域の量と範囲と質が大きすぎるために、まず いったい彼が何者であったのか全体像をひとくちで語れず、ジャンルで突出しないため埋没しがちであること。また、作曲家として、前述の通り10年前後の世代にあれだけの個性的な面々が立ち並ぶ中で、系譜的にはシューマンとブラームスを繋ぐロマン派の中枢でありながら、立場上 古典にも新風にも精通しつつ、同時代のあらゆる作曲技法を自在に操れたゆえに包摂してしまい、オリジナリティの欠如という危険を孕みました。決して模倣ではないのに、個性の強烈なシューマンやメンデルスゾーン、ブラームス『の影響』といった比喩・印象が付き纏ってしまう評価を安易に下されがちです。また教育作品でも有名であるがために、その方面が得意ととられて、演奏家からの無関心やプログラム編成上の敬遠を招くケース。そして、推論として度々聞かれるのが、いわゆる超絶技巧など派手に目を引く箇所が少なく、作風は堅実で保守的(メンデルスゾーンから引き継いだ音楽院の方針でもあります)とされ、要するに「どちらかと言うとパッとしない」「傾向的に地味だろう」という印象。こうして没後は多くの作品が埋もれていったとみられます。
ですが、今回ここで取り上げる三重奏でお聴き頂けます通り、「パッとしない」そんな印象はおそらくお持ちいただけないはずです。堅実で保守的?確かに、書式は破綻ない堅実さですし、無理のある音域が基本的に排されて管楽器にはシューマン作品などよりはるかに息継ぎに配慮もあると同時に、確かに超絶技巧をひけらかす、とまでの派手派手しい場面は無さそうです。だからと言って易しいかと言うと飛んでもありません。それらの配慮がある上で、それぞれの楽器の特性やプレーヤーの個性、フレージングと表現についての考えと実現力を絶妙なラインで深く問う、譜面上はシンプルに見えて奏者を育てる目的が随所に仕込まれているようで唸らされる(さすが教育のプロとも思わされながら取り組んでいます)ものにもなっています。金管楽器代表、木管楽器代表、そして鍵盤の王様ピアノフォルテ。誰も脇役でもなく独立した音色と個性の三つ巴のような扱いです。この3つの楽器のチョイスと、それらに受け持たされたのが、1.300曲の中で何故こういう役目、立ち回りなのか?それもまたライネッケという人物と考え方について興味深く思わされます。
そして技術的な事とは別に、音楽的に「パッとしない」かどうか。これも飛んでもない話で、とても人間的、有機的で魅力的な音楽が詰まっていると思います。ドイツの音楽教育界の権化でガチガチかと思いきや、こんな柔軟な引き出しも持っているのかという、驚くほど楽しげであったり、優しさに満ちていたり、ドラマティックだったり。さながら映画音楽のような楽章もあります。季節でイメージするとしたら、1楽章は秋。2楽章は初夏。3楽章は春、それも桜の頃。4楽章は…春でも夏でもスキーでもいい、とにかく行楽日和、というところでしょうか。
この曲は作品番号188番、42歳の頃なのでライプツィヒで教授職と指揮者就任から7年目の時期のものです。今回のトリオも、40歳前後のメンバー3人での組み合わせとなり、奇しくも作曲家の人生のタイミングに近いようです。作品評として「苦み走った大人の音楽」との声もあるこの曲、(この印象は楽章が限定されると思いますが…)そろそろ人生も演奏も色々な経験を積みつつある3人、どのような人間模様をお見せできるでしょうか。
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